「淀」調査の経緯  [2008年04月09日(水)]


■この記事は「淀」調査に参加された原田慶久さんの記事をそのまま掲載しています。



「淀」調査の経緯と報告 その壱  原田慶久  2008 4 9

今回の淀納所欣浄寺の跡地の確定調査と、3月10日に実現した。源三郎、勇、歳三、彦五郎の子孫が揃い。140年ぶりに埋葬の地を訪れる事が出来たのは、振り返ってみると、全ては、今は亡き方々の意志により、今在る人達が動かされていた!?としか思えない、偶然の連続でした。

全てのきっかけは、市川三千代さんの寛延3年(1750)の淀城下の絵地図から欣浄寺の名を見つけ出した事ですが、欣浄寺跡地の確定が急速に進んだ事、四家の御子孫が揃い淀行が可能となった事は、新選組研究で名高い郷土史家の故谷春雄さんの御子息、谷享司さんの誕生日を祝い、飲んでいた時「3月8、9、10日。山南忌を兼ねて京都に行かないか!」の一言から始まりました。

後日、(2月3日)淀の件とは関係無く、京都に行く事を市川さんに告げると、3月10に、井上さん、宮川さんの妙教寺行きに同行して欲しい事と欣浄寺跡地が特定出来ない事、できれば、当日に井上さんを源三郎の首が埋められた場所を確定し、連れて行って欲しい旨を告げられ。何故だか妙な使命感に駆られ翌日(2月4日)早々に妙教寺の住職から送られた絵地図を受け取りに行く約束をした。

2月4日
朝一に、谷さんに「3月10日の予定は、淀に行きましょう。福子姫も連れて!」と連絡を入れ、昨日市川さんから「谷さんも同行して貰えるなら、妙教寺にある刀を検証して欲しい」と言われた事を伝え、今後の調査の事を話し合った。
夕方、市川さんとおちあい、妙教寺の住職から送られた、絵地図、刀の写真、手紙、簡単な淀納所町の現在の地図を見ながら今までの経緯を聞き、欣浄寺跡地は、どの辺りなのか検証してみる。「私は薬師堂の辺りだと思うんだけど」の言葉に「いや、たぶん、この辺り!」と何故なのか、確信に近いものを感じたのを今でもはっきりと憶えています。

寛延3年の絵地図に書かれている千本通り、淀小橋から伸びる町屋の中を通るL字形の通り、淀堤沿いの通りがそのまま残っているのが、現在の地図からもはっきりと見られたので。また、絵地図にありがちなアバウトさ、描く人の視点と感覚で書く縮尺の曖昧さ、絵地図内から読み取れる、距離や方角をあまりあてにしてはならない事。但し、書かれているものの配列はあてになる事などから「この辺り!」という根拠を説明しました。

しかし、それ以上に「絶対にこの場所だ!」という自分でも解らない『何か』が頭の中を支配していました。

取り敢えず、明治になってからは実測地図がある筈だから。実測地図を年代事に手に入れその土地の区画の変遷と、欣浄寺が何時廃寺になったのか等が書かれた記録や文書を現地の資料館等から早急にあたって行きましょうという事で、帰路につきました。

こうして、あらためて書いていると不思議に思うのですが。2月4日は妙教寺で毎年、戊辰戦争の時、淀界隈で戦死した方々の供養を行なっているそうです。旧暦でいう1月4日にあたるそうです。

翌日、仕事をさぼり。地図と文書を探し、京都市内の役所や資料館に片っ端から問合せ、辿りついたのが京都府立総合資料館でした。文書担当の方に、廃仏棄釈のリストを調べて貰い。地図等の担当の方に話をしていましたが、今一つ反応が悪いので。早急に日野郷土資料館の高橋館長(今年3月31日で退職)にお願いし、再度TELにて交渉して頂き、明治23年の2万分の1と大正3年(実際届いたのは、昭和10年)の3千分の1、昨年度版のゼンリンの住宅地図を郵送する手配をしていただいてる時、携帯に連絡があり、廃仏棄釈のリストに欣浄寺は載っていない事を文書を担当している福島氏から告げられました。

しかし、その日の夕方、再度府立総合資料館の福島氏からTELが入り。明治5年の欣浄寺の見取り図と、明治7〜9年にかけての欣浄寺跡地の払い下げに関する文書が23枚あったと報告がありました。その時の福島氏の話しでは、欣浄寺が妙に気になったのと、たまたま午後から時間が空いたので、収蔵資料を全てあたってみたそうです。因みに、福島氏は、新選組や井上源三郎の事はまったく感心が無いそうです。

2月8日
高橋館長から地図が届いたと連絡があり。またまた仕事をさぼって、郷土資料館に向かい、早速、地図を照らし合わせながらの検証を始める。明治23年の地図を見ると、寛延3年の絵地図と町並みはさほど変わりなかったが何分、2万分の1故、細部を検証するには、不十分。昭和10年の地図では、京都守口線が通りそれに伴い代替地として移動したと見られる住宅と、絵地図上では田畑だった場所に納所尋常小学校が建っている位で変わりは無かった。ゼンリンの住宅地図を見て町名の区割り等を見て行くと。

絵地図から、昭和10年の地図にも残っている町屋の区割りが基本になっている事、寛延3年の地図にある地名、区割りが多少の誤差はあるものの明治、昭和と現在から比較してもさほど変わりなく地図を読み取る知識があれば充分に割り出せるレベルでの推移しか無い事から、地図上で寸法を統制し測ってみると、町屋と隣接する欣浄寺の境界線は割り出せた。但し、この時点では、見取り図は届いて無い故に、欣浄寺の敷地面積等は解らないため『この範囲』というレベルでの割り出しに終わった。


2月10日
井上さんに、3月10日の淀行の件と地図上でのエリア確定が出来た事、但し文書等でからの立証はこれからだという事を報告する。

2月16日。
谷さんに会い、地図上での検証を見て頂き。間違いの無い事を確認して貰い。その後、市川さんと昼食をかねて地図を渡す約束をしていたので日野宿本陣に行き経過を報告する。その後、『山の上』で偶然、土方愛さんに会い今回の経緯を地図を見せながら話し「小川さんも行くよ〜」「えっ、小川さんも行くの〜楽しそ〜スケジュール調整してみます!」と、淀行きをお誘いする。その後、谷さん、高橋館長とおちあい打ち合わせ。しかし、約30分後邪魔?が入る。

2月17日
谷さんと井上源三郎資料館に地図を見せに行く。偶然現れた天然理心流の曽根君を淀行に、当日の調査スタッフとして誘う。

2月18日
京都府立総合資料館から、欣浄寺の見取り図と払い下げに関する文書が届き。高橋館長、谷さん、市川さん、小川さん、松本さんに連絡する。

2月19日
前日、高橋館長と市川さんに「早く見たい!」と駄々をこねられ(笑)、またまた仕事さぼり(仕事させてくれよ!)郷土資料館に向かう。途中、愛さんから連絡があり、10日淀行けるとの事。これで、源三郎兄、勇さん、歳さん、彦五郎兄のご子孫が揃った。


夜、谷さんとおちあい、再度検証。明治5年の見取り図によると、東西17間、南北15間の敷地である事。明治5年の時点で建物と墓所が残っていた事が判明した。また、欣浄寺と別に浄盛庵(後の浄盛院)が関連する事、跡地を払い下げて貰った方達も、文書に書かれていた。 資料上での跡地の確定はほぼ終了、但し、山門の明確な位置は記録には無かったが、田圃との境界線から、およそのラインは推定できる範囲 までは絞り込めた。
後は現地での3月10日当日の聞き込み調査のみとなった。


2月27日
一番、厄介な事が起った!
朝、鈴藤さんから、某ホームページの掲示板に、今回の調査の事が書かれているという連絡があり、確認すると事実とまったく違う形で書かれていた。
伝達ゲームにありがちな、情報のずれ、では無く、明らかに書く人の想像力と認識不足からくる内容だった。

また、一番困るのは、今回の調査は、井上源三郎の首級を埋めたと言われている目の前の寺の跡地の確定であって。日野側からすると、よその土地の事をこちら側の事情で勝手に調べている訳なので。現地の、今現在『その土地』に住む方々の意向や心情を無視して、こちら側の心情で勝手に公表する訳にはいかない。我々、愛好者や支持者からすれば『井上源三郎の首級』であるが、知らない人や興味の無い方達からすれば『何なのそれは』である。その辺には、細心の注意を払い、慎重に事を進めなければならない。故に、現地に赴くまでは、話しを伺いたいとピックアップしていた個人宅には、電話にて話しを伺う等の行為は、皆で『厳禁』としていた。それが、最低限の相手への礼儀であるから。


そして、公に今回の話しが出回るのも押さえていました。
場所が確定した事や、その場所に関する情報の公開は、その土地の方達の了承を得ない事には、やってはならない事である。例え、よい結果になろうとも、然るべき手順は踏まなければならない、それが人としての礼儀である故に。
フライングした掲示板により、流山をはじめ、各方面からネット上で話しが飛び駆っているとの連絡が入り、それに対して一切触れないよう、また、こちら側の趣旨を理解して頂くようお願いした。特に、流山の松下英治氏には、御尽力頂いた。

3月に入り、市川さんから今回の話を聞いた真慈悲寺ボランティアの西村さんが、京都在住の従兄弟にお願いし、3月10日にお話しを伺いに行こうとしていた浄盛院の住職から、欣浄寺の本尊と言い伝えられている地蔵菩薩がある事、また地図上で確定していた場所から工事の際に墓石が出ていた事実を確認してくださった結果、跡地は自分らが割り出し確定した場所で間違い無い事が全て立証された。後は、3月10日に現地に行き、その土地の方々の御理解を頂くだけとなった。

3月8日
京都入り、140年前なら上京です。谷さんが先導して、井上源三郎達が歩いた京都の街をひたすら歩く!



その弐に続きます。


その壱からの続きです。壱からお読みください。


■この記事は「淀」調査に参加された原田慶久さんの記事をそのまま掲載しています。


3月9日
朝一、高橋館長と京都府立総合資料館の福島氏に挨拶に行く。その後、山南忌に参加。

3月10日
遂にやってきた、この日が。京阪電鉄淀駅に着き、初めに浄盛院にお邪魔して住職の話を伺い、欣浄寺の本尊と伝わる地蔵菩薩を拝観させて頂く。
浄盛院を後にして妙教寺に向かう。住職から淀戦争の話しを伺い、砲弾の飛び込んだ跡を見せて頂く。


inoue_0111a.jpg



ご住職のお話しでは、以前調べてくれた人が言うには、威力が無くなった砲弾が飛び込んだと言われたそうだが、とんでも無い!外壁板と内壁板をぶち抜き、本堂の柱を貫通して更に内壁をぶち抜くまで至る砲弾の弾道、跳弾の角度を目測で測ってみても終速には至らない充分な速度で飛び込んだ事が判る、但し残っている砲弾を見ると、信管を着けずに撃っている事から、淀小橋から約300mの地点からの妙教寺の辺りでは、通常の4斤砲射撃での、その地点での弾速よりはかなりの空気抵抗を受け、失速はしているだろう。何故、信管を着けずに打ったかは、判らないが、けして、信管を着ける事を知らなかったなどとは思って欲しくは無い。それだけの激戦、混戦状況にあったのだろう。
妙教寺前から出土した錆びた刀は、谷さんが検証された結果。明らかに何かに切り込んだ痕跡が見てとれるそうです。

妙教寺を後にし、愛宕茶屋に立つ碑に参り。今回の目的地の欣浄寺跡地の一画にある、辨慶うどん淀店に向かい昼食を取る。注文の品が出て来る間、近隣の方から話しを伺い、工事の際に墓石が幾つも出て来た事等を伺う「墓石の事は、最近では、うどん屋さんの店主に話しを伺えば」と言われたのだが、店が混雑していてお話しを伺う事ができなかった。


ご子孫の方々の記念撮影をする為に。先程、話しを伺った方の敷地に移動する。井上さんが、この地の土を持ち帰りたいとの意向なので許可を得る。また、この地を公表する事の了承も頂いたが、やはり明らかに個人の方の敷地なので、できればうどん屋の敷地の許可を得たかった。


inoue_0123a.jpg


辨慶うどん淀店

京都府京都市伏見区納所妙徳寺15-3

TEL 075-631-8621

営業時間

午前11時〜翌午前1時まで! 参考までに

■こちらは営業店舗です、業務以外のお問い合わせはご遠慮ください。


その後、千両松の慰霊碑に向かう。
宮川さんと井上さんの唱える般若心経に合わせ皆、黙祷。福子さんが何かに憑かれたように泣き出した。後程話しを聞くと、戦死した方々の意識が入りこんで来たそうです。

3月11日
やはり、自分達が動いていたのは。見えないチカラによるものなのか!
昨日、お会いできなかった、辨慶うどんの店主山田さんに、TELにて色々と不思議な縁を感じる話しを聞かせて頂いた。先日、名刺だけは井上さんが置いて行ったので、それを見た店主は、地所の前の所有者が『井上』という方だったので、その方々が食べに来て下さったと初めは思ったそうです。しかし、名刺に『新選組』の名が見て取れた事から、当日淀観光協会から届いたマップに書かれていた事から。その事で新選組関係の方が来られたのだと思っていたそうです。

淀千両松での源三郎の戦死と、泰助の事、今回までの経緯を話すと。店主は、「背筋がゾゾっとする!」と言われ、驚かれていました。工事の際墓石が出て来た事。店主のお父様が、「この土地の歴史を調べて見ろ」と言われていた事。そのお父様の誕生日が3月10日である事。

そして何よりも、店主と奥様の夢に度々、男の子が頻繁に出てくるが、嫌な感じはしない、と言われました。井上泰助は幾つ位なのですか?の問いに。当時、数えで12歳だから、今でいう11歳、丁度小学5、6年生ですと答ると、ピンと来たそうです。

そちらの地所の一画に、『欣浄寺跡地、井上源三郎縁の地』の碑を建てたい意向を伝えると「供養にもなるので、前向きに進めて行きましょう」とのお返事を頂けた。

今後、この地を訪れる新選組愛好者の皆様!土方愛さんが、忘れられ無い味と言われた。『かやく御飯セット』はお勧めです!

但し、『たぬきうどん』はこの辺りでは、あんかけの事だそうなのでご注意下さい(小川利恵子談)。

店主からの話しを、井上さんに伝えると。喜んでおられました。また、毎月10日は、泰助の月命日だと聞かされ、自分が場所が地図上で確定した事を報告したのが2月10日だよと言われました。

3月16日
宝泉寺で、今回の関係者が集まり、墓前報告会を行ないました。井上家の墓前と、翌日命日の谷春雄さんの墓前に今回の調査が無事終了した事と、淀の地に無事に『欣浄寺跡地、井上源三郎縁の地』の碑が立つ事を祈りました。

その後の打ち上げの席で、碑を建てる実行委員会を谷享司さんを委員長として。満場一致で発会しました。

今回の調査は、けして個人のチカラで出来たものでは無く!そこに集った皆のチカラで、誰一人欠けても実現しなかった事だから。 今度は、全国の愛好者、支持者、理解者の合力で!の思いの元。今は亡き方々もそれを望んでいる事と思う故に。

今回、始めに淀の地で白羽の矢を立てられた市川三千代さん。 自分は前々から知っていますが、彼女が5年前に、当時の『ふるさと博物館』が新選組ガイドボランティアを立ち上げる以前から。井上家の墓を訪れ、純粋な思いを持っていた事を。

その真心が今回、源三郎の魂を引きつけたのではないか!?と
市川さんは、現在、日野宿文書検討会のツアーや、日野のガイドで活躍されています。

彼女の真心溢れるガイドを受けてみたい方は是非申込んでみて下さい。


後日、谷享司さんからの報告があります!




■ 新聞記事はこちら
 
もどる
■ 井上源三郎生家はここをクリック
 井上源三郎 淀古地図調査報告   
石田大橋 佐藤彦五郎 小説・炎の男 高幡不動尊 百草園 石田寺
日野市観光資料 イラストMAP 日野ニュースweb 春夏秋冬 新聞記事 刀剣村野
沖田総司
新選組 副長助勤
    六番隊組長 井上源三郎